Twitterを5日間やめてみて感じたこと
Twitterをはじめてかれこれ10年、過去のアカウントの総ツイートを計算すると20万だった。
単純計算して1日50ツイートちょいである。
さほど多いわけでもないが、かといって毎日Twitterに張り付いていないと難しい数字だとも思える。
実際ここ10年数日間まったくTwitterを見なかった記憶はほとんどない。
ここらで一度、やめてみるか。
動機
ここ二週間ほど夜2時くらいになると「この人生なんなんだ?」という思いとともに、Twitterをやめれば多少マシになるのではないかという思いにも苛まれるようになった。
具体的にTwitterの何が悪いかは分からないのだが、悪いのはTwitterだと思い込むことで精神の安寧を保とうとしていたのかもしれない。
Twitterやめたら研究上手くいって彼女出来たりしないかな。Twitterやめたら研究上手くいって彼女出来ませんか?
— kg_null (@kg_null) November 17, 2019
過去10年間でこのような気持ちになったことはなかった。
過去10年の間は勉学が上手くいっていて彼女がいたというわけではなく、病める時も健やかなる時も、いつ何時であってもTwitterのせいだと思ったことはなかった。
そろそろ潮時なのかもしれない。俺こそがインターネット老害部だ。姨捨山に捨ててくれ。
幸か不幸かその週はタスクが山積みだったので、集中して作業を終えるためにもTwitterからログアウトした。
今週Twitterやめてみるか。
— kg_null (@kg_null) November 24, 2019
辞世の句である。
Twitterをやめてわかったこと
生活
無駄な時間がなくなった
一番大きな変化はこれだった。
朝起きてから、昼食を食べたあと、夜お布団に入ってから。少し時間ができるたびに開いていたTwitterから離れたことで、行動と行動の間が短くなった。
一週間程度では習慣になりやしないので「よし寝るか!」というよりも「あ、Twitterやめたんだったな.....寝るか」という具合。どちらかといえば諦めに近いものであったのでポジティブな雰囲気ではなかった。
ともかくだらだらとTwitterを見る時間がなくなったことにより、寝るのが早くなったことは間違いない。
これに関連する変化が2つほどある
生活習慣の向上
先ほど書いた通り、寝るのが早くなれば起きるのも早くなる。
朝起きて通知が来てないのが普通
これは驚きだった。
朝起きてから必須の作業だと思っていた通知チェックは全てTwitterの通知だったのだ。
LINEやメールなど当然来ていない。全て昨晩あるいはそれ以前の私がしたツイートへいいねやRT、リプライがついた通知だったのだ。
流石に少し気持ちが揺らいだ。朝起きて溜まっている通知はそのまま自分の承認欲求を満たすことに大きく繋がっていたことに気が付いたからである。
誰かに求められていたり、誰かに褒められるという経験を朝起きた瞬間から得られるというのがこれほど貴重なものだとは思わなかった。
通知なしに起きた1日を一体なんのために生きればいいのか。誰が私の今から生きる1日を褒めてくれるのか。
朝の通知は承認欲求の短期借入だったのだ。
調達できなかった承認欲求は今から稼ぐしかない。
Twitterをやめると、諦めの気持ちを持って速やかにお布団から出ることが出来る。
禁煙の気持ちがちょっとわかる
私は喫煙者ではないが、ちょっとわかるようになったと(一方的に)思っている。
エレベーターを待つ間にちょっとスマホを取り出してTwitterを開こうとするも、辞めたことに気がつく。開いたスマホを何するわけでもなく持っている。手に持っているのに手持ち無沙汰。
Twitterが出来ずにイライラすることはないが、タバコはこれが中毒症状であるからなおのことしんどいであろう。
自分の興味のないジャンルのニュースが分からない
面白い出来事やコンテンツの情報が入ってこない
Twitterの大きな利点として"流れてくる"点がある。
能動的に調べずとも、TLを眺めていれば自然といろんな情報が入ってくる。フォローしている界隈(存在しない概念)が多岐に渡れば渡るほど、入ってくる情報のジャンルも多岐に渡る。
Twitterをやめたとたん、興味ないジャンルのニュースは全く分からなくなった。エンタの神様で人気絶頂を迎えていた芸人を知らなかったあの頃の親父の姿と全く変わらない。
それからネット上での流行りも分からなくなった。大蛇丸の声真似から時が止まったままになった。
これはわりあい恐ろしい状態で、自分の興味ある分野の話題しか分からないので自分と趣味の合う人としか会話できなくなる。
美容院なんかもってのほか。今ですらお客さんユーチューバーの◯◯に似てますね~とか言われても愛想笑いしか出来ないのに、普通にM-1優勝した芸人の名前出されてもわからなくなる可能性すらある。
自分の周りしか分からなくなる
これは当然の話なのだが、Twitterで知り合った友達や、日頃会わないがTwitterは相互の友達の近況が分からない。
自分が日頃会って連絡を取り合っている人のことしか分からない。
Twitterで知り合った友達なんかはTwitterをやっていなければ本来出会うはずでなかった人の話であるからむしろ自然な(?)状態に戻ったという見方もできるが、一度できた繋がりは容易に消し去れない。
日頃会わないがTwitterで近況をなんとなく知っている友達など昔は毎日会っていた同級生なんかもいるのだからなおのことだ。
2年会ってないのに突然リプ飛ばして今から飲もうよなんて言って会って、見た目は随分変わったけど今何にハマっていて今日どこから来たか大抵知っている友達を相手にすんなり盛り上がったり出来ちゃう現代は本当に便利なんだと思う。
恥ずかしながら今の私は年賀状をほとんど書いていない。かといって逐一LINEを飛ばすほどマメでもない。
Twitterがなくなったらどこに温める旧交を求めればよいのだろう。
生産性は上がったと思う
集中力の切れる間隔が長くなった。以前は1センテンス書いてはTwitterを眺めるなどザラであったが、Twitterがなければ2,3時間ぶっ続けでも平気で作業できる。
これはTwitterをやめてどうこうというよりも、私の忍耐力だとかそういった問題に当たると思う。
感情
人の感情に振り回されずにすむ
個人的にはこれは非常に大きな要素だと思っている。
Twitterでは日々誰かが怒っている。交通事故だとか政治家がどうだとかツイフェミがどうとかだ
今まではそれを見るたびに忸怩たる思いになったりだとか正義は無いのかだとか人の怒りにあてられて心をしんどくしていたのだが、Twitterをやめている間はそれが一切なかった。
テレビで報道されている事件は画面の向こうの話だし、私の周りは今日も平和。
Twitterユーザという"個人"から与えられるナマモノの怒りや悲しみに触れない日々はとても穏やかなものであった。
誰かのために怒ることは決して悪いことではないが、私自身は心の容量が大きい方ではないので誰かの感情に触れるたびに怒ったり悲しんだりしていてはもたない。疲れてしまう。
自分の感情のためだけに自分の心の容量を使えたので非常に精神衛生が改善された。
感情の起伏が小さくなった
上記に関連するのだが、怒りや悲しみだけでなく笑いや喜びの方向にも感情起伏が小さくなった気がした。
これは単にTwitterに触れていなかったからおもしろコンテンツに出会えなかっただけかもしれないのだが、Twitterをやめていた5日間で本当に大笑いした記憶があまりない。
感情の振れ幅が小さくなるとその分自分の制御下に置きやすいのでよいのかもしれないが、世間体を気にする隙すらないほど大笑いすることがないのも寂しい。
喜怒哀楽で言うところの、喜と楽にだけ大きく触れ、怒と哀は小さく振れるような感情の持ち方をしたい。高校物理でよくみた、途中に釘を打った振り子みたいに。
自分自身について
自分がキモオタクではなくただのキモになる
Twitterもやらず、推しリプを送るでもなく、かといって現実で何か夢中になれることがあるでもなく。
このままでは自分が今のキモオタクからオタクの取れたただのキモになってしまうのではないかという不安に常に付きまとわれた。
これはTwitterをやっていたときから持っていた不安だが、Twitterをやめることで助長された。
いつかただのオタクになれる日がくるんやろか
アウトプット不足で脳みそが余る
Twitterをやっているときはいつだってツイートするネタを探していたし140字に収める努力をしていた。
Twitterをやめてからはほとんど文章を書くことはなく(書くのはプログラミングのコードばかりであった)脳みそが突然仕事を失って持て余している感じがあった。
そのせいか夜の寝付きは期待していたほど良くなく、まだまだ全然働けるぜと訴えてくる脳みそを寝かしつけるのに苦労することもあった。
140字の短文にすぎないが、ストレッチ程度の意味はあったらしい。
夜研究室から帰るときの死にたさが若干薄まる
23時、誰もいない研究棟を出てバイクに乗るまでのあいだとてつもない虚無感(平たく言うと死にたみ)がほとんどなくなった。
単に生産性が上がって「今日も仕事したなぁ~」みたいな多幸感に包まれたとかそういうことではなく、夜の研究棟のガラスにぽつんと一人で映る自分を見て何も思わなくなったと言ったほうが近い。
これは未だに自分の中でも解釈できていないので、現象として書き残すに留めておく。
自分について考える、見つめ直す時間は増えた
暇な時間が増えたこと、なにより「今まではこの時間Twitterやってたんだな」と自覚することで、「じゃあ今の自分はTwitterの代わりに何が出来るか」といったようなことを考えることができるようになった。
今日これからのこと、明日のこと、研究のこと、将来のこと、考えることはどうやら尽きそうになかったが、Twitterで誤魔化すこともできないので向き合うほかなかった。
その結果得られたものも多かった。今自分がやりたいことやなりたいものについて真剣に考えることができたし、タイミングよく友達とそれを語り合うこともできた。
とにかく向き合わなくちゃいけなくなってしまったせいに過ぎず能動的な行動の結果ではないが、いい成果が得られたと思う。
まとめ
ラマダーンみたいな感じでデトックスがてら3日くらいやるのはいいかもしれない。
なにかに邪魔されず自分を見つめ直せる気がする。
Twitterの使い方としては、いいね稼げそうなときにだけつぶやく方がいい。
呟かずに常駐していいね押しまくるのはなんのためにもならない。
Twitterのハイライト機能はインスタントにおもしろを得るには割と便利。
とりあえず平日5日間Twitterやめてみたけど生きていけるっぽいな
— kg_null (@kg_null) November 29, 2019
ともかく、Twitterをやめても死ぬことはない。
現場からは以上です。